零の軌跡に残された謎を回収しつつ、1つの街で起こった事件としては壮大過ぎる話が展開されました。
しかしこれは大きな物語の一部分に過ぎない事がそこら中で示唆されていて全体像が気になるので、続編が出たら必ず買おうと思います(多分ロイド達が主人公ではないでしょうけど)。
ところで、RPG作品の多くは主人公側と敵側に相容れない対立があり、そこで戦って勝つというのが王道ですよね。本作もその例に漏れません。
この手の作品で主人公側の価値観に共感し損ねた結果、いまいち楽しめなかったという経験はないでしょうか。個人的に最近そういうの多いんです。でも本作は、殆ど強制的といっていいほどの力技で共感を誘ってくれました。いやー反則ですわ。
以下、零&碧の軌跡のネタバレをふんだんに含んでおりますのでご注意下さい。
対立関係
本作の終盤では「世界の因果律が」とか「時空を自在に操り過去すら書き換える」とかいった壮大過ぎるワードが乱舞しますし、実際その力は前作「零の軌跡」にて一度振るわれています(そういえば都合が良すぎる気がしました)。とんでもない話です。一言で言えば「なんでもあり」の力が、夢物語ではなく実現してしまった。
それを実現させたのが本作の敵方であり、それを失わせたのが主人公側でした。
敵方も決して一枚岩ではありませんでしたが、大雑把にまとめてしまえば次のような主張です。
- クロスベルは、帝国や共和国といった外部からの大きな力に翻弄されている。
- 弱い立場に甘んじている限り、我々の問題を自身で解決する事すら許されない。
- 二大国やその他の軛から逃れる為には、自分達も大きな力を持つ他ない。
- その力が「碧の至宝」。これがあれば万事解決である。
- 目的は手段を正当化しない(非人道的な実験やらを繰り返した件)。
- 以前「幻の至宝」が自滅を選んだように「碧の至宝」も危うい力である。
- 自分達の力で困難を乗り越える事に意味があるのであって、「碧の至宝」頼りでは人間はダメになる。
でもそうではないのです。壁とかどうとかはメインテーマではないのです。
ツッコミ1:壁を越えた、ような
確かに、どんな失敗も神がかった力によって成功に改変されてしまうなら人はダメになりそうです。でもこの神がかった力は人間の認識も操れる(幻の至宝のレプリカですから本領ですね)ので、ただ事実を成功に書き換えるのではなく困難の末に乗り越えた事にしてしまえばいいじゃないですか。
ロイド「兄ちゃんが死んだ。その悲しさや悔しさが俺を引っ張ってくれたおかげで俺は早い内に捜査官になれた。兄ちゃんの死がなければ俺は今ほど強くなれなかったかも」
ガイ「そんな気がしたかも知れないが俺は実は死んでなんかいなかったんだぜー3年振り☆」
とかでも別に成長は出来るわけでしょ(例がひどい)。ソードマスターヤマト最終回方式。
ツッコミ2:その壁は誰かの血と汗
要するに相対論なわけですが。
例えば前作のマフィアや本作前半の外国人(帝国人)に対して警察権力が及ばない事をさしてロイドは「壁」と表現します。でもそれだってマルコーニなりハルトマンなりが彼らの流儀で戦って得た結果なわけで、ロイド達がそれを犯そうというならそれなりの正当性が求められます。
(ロイドは自分達の事を正しいとか正義とか言わないので、そこは非常に好感が持てました)
仮に「壁を越える」をメインテーマだと捉えてしまうと、ロイド君達はかなりのオレオレ正義マンに見えてしまいます。自分らはよくて他人が壁を越えるのは邪魔するんかい、みたいな。
だからそうじゃないんだと思った次第。
答え:可愛いは正義
碧の至宝ことキーアちゃん可愛い!
…冗談でもなんでもなく、これが主人公側の行動原理の中心である事は本人達も述べていますしね。自覚的に親バカやってるならいいじゃないですか。
プレイヤー的にも、キーアの家具を全部揃えるとかの外せないイベントを抑えていれば無理なく同意できるはず、もとい同意せずにはいられないはず。
キーア可愛いなぁ。
一応この件に関しては、「幻の至宝」のレプリカである彼女の力が周囲の人間に自身を愛するよう強要しているのであって、本当の愛ではないという意地悪な見解が提示されます。しかしロイドは「子供が愛されやすいように可愛いのは自然な事」とまるで生物学者か遺伝学者のような理屈で一蹴しましたね。ブレないロイドさんGJ。
残念ながら世の中には、キーアの可愛さが理解できないプレイヤーも居るかも知れません。そういう人は本作終盤を楽しめなかった(ロイド達に共感できなかった)かも知れません。
人生損してる。僕は得してる。
あっ
次回作には多分キーアがいない。。。どうしよう、買おうか悩みますね?
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