正直、少し前の僕の頭の中では仙台と大震災はさほど強く結びついていませんでした。大震災と言えば福島(原発)、ないしは沿岸部(津波)、という認識。これは今思えば余りにもいい加減なイメージでした。
仙台と大震災とが強く結びついたのは、仙台の人達が演った芝居を観て、話を聞いてからのこと。お恥ずかしい、限り。
という枕で書き始めておいてなんですが、本書「仙台ぐらし」を「震災に関する本です」と紹介するとちょっと誤解を呼びそうです。何しろ半分以上は震災前に書かれた「仙台在住ライターの日常」的な内容ですから。
そしてこの本を読んだ僕もまた、震災とは一見関係のない、障害の事などを考えたりしたのです。
この本はなに?
以下の内容で構成されています。
- 地域誌「仙台学」にて伊坂さんが連載していたエッセーを改稿したもの(全て震災以前)
- 震災後に書かれた短いエッセー
- 震災後を舞台にした短編小説(フィクション)
「前半の何気ない日常で作者の仙台への愛着を描き、震災後のエッセーに見る素朴で飾らない悲しみとのギャップによって被災者のリアリティを浮き彫りにする」とか。いやもうこの紹介の仕方が嘘臭い。
そんなに気負わなくても、普通に楽しいエッセーです。僕は「心配事が多すぎる」というエッセーがツボで、大いに笑いながら読みました。引用をまじえつつ紹介します。
伊坂さんが住んでいたアパートで、深夜に隣室から口論の声が聴こえてきたそうです。激しい言い争いの声がし、それが急に止まったというだけで、伊坂さんはドラマや映画で見るような殺人のシーンを連想してしまいます。翌朝その部屋からシャワー音が聴こえてくると妄想はさらに具体的になり、「風呂場で死体を処理しているのだ」と決め込んでしまい、更には「だとしたら、そのうち、僕のところにも警察が来るに違いない」。彼の部屋にはミステリー小説の参考資料として物騒な本もありますから、警察はアリバイを尋ねてきますが、夜は寝ていただけで家族以外に証言できる人もいません。このことをマスコミに嗅ぎつけられ、曖昧な嫌疑のまま犯人扱いをされ「人生を台無しにされてしまう」。
どう考えても心配しすぎです! 殆ど妄想、いやいや全て妄想と言ってもいい程です。夏まちの海人くん並みの妄想力です。
ちなみにこの話の落ちは以下の通り。
どうしても耐えられなくなり、妻にその悩みを打ち明けた。隣の部屋で何か事件があったら、僕は間違いなく犯人と疑われてしまうだろう、そして僕には自分の身の潔白を証明する術がないのだよ、と。すると彼女は、勝手に悲観的になっている僕のことを面倒臭そうに眺めながら、「でもさ、動機がないよ」と子供を諭すようにした。
その瞬間、陽光がさした。「そうか!」と思った。
ー「仙台ぐらし」P89より
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楽しい人だなぁ。
こんな楽しい話も載っている本なのです。
震災に対するイメージ
とはいえ、震災と無関係の楽しいばかりの本とはやっぱり言えないので、僕の視点でガツンと来た点も紹介しておきます。
最後に収録されている書き下ろし短編「ブックモビール」(フィクションです)に登場するある人物は、僕と同じような認識を述べるのです。つまり、「ここいらは大した被害はなかったんだね、無事でほっとするね」といった事を。
震災のあと、沢山の動画や画像を通じて、僕は被災地の様子を目にしました。そうして、津波で何もなくなってしまった所や、建物の上に船舶が乗っているような光景に比べれば、ヒビや歪みがあっても家々がちゃんと立っている地域を「大分マシだ」と感じていました。
これに対して、主人公の一人は怒りを露にします。
光景が変わっていなければ、被害はないと思うんですか? 家が壊れていなければ、無事だと思うわけですか? 住んでいる人たちの日常はずいぶん、壊されたのに? あなたは、ただ、大きな自然災害の現場を見にきて、ああこれはひどい、言葉を失うね、と言いたいだけなんだ。
ー「仙台ぐらし」P194より
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ごめんなさい。申し訳ない。
と、ここで話は大きく変わりまして、僕がここまで恥じ入ったり申し訳なく感じたりしている理由について触れたいと思います。
見た目じゃ分からないこと
僕は足が不自由です。杖をつかずに歩く事は困難です。そういう体になったのは2年ほど前の事です。
杖を持ち歩いていると足が悪い事が周りの人にも知れるので、電車の中で席を譲ってもらったり、エレベーターで扉を開けたまま待ってもらったりと人の善意に触れる事が度々あります。ありがたいことです。
一方で、そうした手助けが必要ない場面もあります。僕の場合は少しの時間立っている行為よりも座った状態から立ち上がる行為の方がずっとキツいので、短い区間なら立ったままで過ごします。そこで席を譲ってもらっても、やんわりとお断りして座りません。
そうした事情は僕の外見からは分からない事ですから、声をかけてくれた人がお節介だとは思いません。もし聞かれれば説明しますし、説明する前から分かって欲しいという無理を要求するつもりもありません。
何が言いたいかと言うと、健康な人とそうでない人の関わりにおいて、見た目で判断しようがない事情が沢山あるという事です。
だから、見た目上は健康にしか見えない人が優先席に座って席を譲らなかったとしても、僕は全く気にしません。その人は見た目に分からないけれども座っているべき事情があるのだろうと思うだけです。
(そうじゃない人もいるんでしょうけどね! 他人にそれは断定できないという話)
と、以上のような事を2年前からつらつら考えていたにも関わらず、
僕は被災地と被災者を見た目で判断していたのです。それが恥ずかしくて申し訳ない。
自身の肢体に不自由を抱えてみて僕が分かったのは、見た目じゃ分からないという当たり前の事でした。健康で他人を助ける余裕のある人は、何か手助けして欲しいかどうかを訊いてみる事から始めたらいいんじゃないか、という結論もやっぱり当たり前の事かも知れません。
被災者に接するにあたっても、同じスタンスでというのは短絡的でしょうか。まずは話を訊いてみたらいいんじゃないでしょうか。
そんなわけで
仙台を拠点に活動する劇団「三角フラスコ」さんの舞台は、この週末に札幌で、5月に仙台で観られるようです。ご興味をお持ちの方は足を運んでみてはいかがでしょうか。
まさかのステマ落ちでした。いやステマじゃないですけど。
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