2011/09/30

書籍感想)鬼物語 しのぶタイム/西尾維新

物語シリーズ最新刊、鬼物語のご紹介。

 

「100パーセント現実味あふれる小説です。」とは、この悪鬼跋扈する世界観でどういう話になるんだろうとページを繰ると、なるほど現実的だなぁと逃げ道を塞がれる思いに陥ってしまった。
決してつまらないわけではなくて、とってもとっても面白くて、久々に見る真宵との漫才は涙が出たけれど、読後に爽快感などはなかった。
読み終わって感じたのは、無力感と、「これ…『しのぶタイム』…!?」という疑問ばかりだった。

以下、ネタバレあり。




忍は映画の宣伝をしようとし過ぎたせいで罰があたったのだ…。これ「しのぶタイム」っていうより「まよいリバー」なんじゃないの。真宵の登場シーンが増えたのは、喜ばしい事だけどね!

単体での感想

この世には目に見えない、明文化されないルールがあって、それは厳格かつ教条的に、違反者を裁いている。時に理不尽に感じるルールでも、それがルールだから逆らえない、という事に決まっている。
その執行者、目に見えるようで目に見えぬ、とにかく視認はできる存在、『くらやみ』。

「十二国記」シリーズの覿面の罪を連想した。十二国記の世界には、「いかなる時にも、他国の土地を軍を以て侵略してはならない」というルールがあり、それに違反すると国王は即座に異常な死に方をしてしまう。これがどれほど厳格かつ事務的に、ルールに基づいて発動しているかは、「黄昏の岸 暁の天」を読んでもらうとして…。

  
話を戻すと、鬼物語に登場する『くらやみ』は、覿面の罪より些か質が悪い。なぜなら、タイムラグがあるから。

犬などの躾や訓練に於いては、悪い事をしたら即座にその場で叱る、良い事をしたら同様にすぐ褒める、というのが望ましいらしい。後から怒られたって何がマズかったのか分からないのだ。
ならば、『くらやみ』は良い躾役とは言えないだろう。キスショットが神を演じ始めても、真宵が「帰宅」して猶この世に留まっても、すぐにはやってこなかった。半ばそれが当たり前なんじゃないかと安穏とし始めた頃に漸く、叱られる側にとっては唐突に、姿を現すのだから。

それが不条理だとか何とか言ったって始まらない。そういうものなのだ。ここで言うのは、フィクションとしての「物語」世界の中ではそういう設定になっているんだ、という意味ではなくて、僕らの暮らす現実世界だって、そういうものなのだ、と言っている。
ケースにある「100パーセント現実味あふれる小説です。」はその辺りから来ているのだろうと、僕は理解した。キメ顔で。

大体、間違いを犯した際にそれが間違いだと教えて貰えるケースなんて、学生でなくなってしまえば稀有なものだ。自分で気付くか、でなければ気付かないかのどちらかだ。ぼんやり生きていると圧倒的に後者が多い。
忍の記憶が摩耗しているのは、まだいい。自覚し認識した事実は、何かあれば思い出せるのだから。でもそもそも気付かない、認識に上らないものは、摩耗する以前に記憶に刻まれない。時間が経ってから他人に指摘されても、最悪の場合「あれ?僕そんな事した(言った)っけ?」と、素で思い出せないような事態になるのだ。

端的に言って、「空気」という目に見えないルールを読み損なった時、その場で「空気読めよ」と指摘してくれるとしたら、それは寧ろ優しさ溢れる行為なのだ。
大抵の場合は、そのひとくさりが終わった後、空気が読めなかった当人の居ない場所で、「アイツのアレは無かったわー」と、過去形かつ三人称で語られるものだ。明文化されないルールなんてそんなもので、それはそういう風にあるものとして受け入れる他ないのだ。

そういう意味で『くらやみ』は、不快な敵である。

ところで、僕の読み方がマズいのか、一箇所つまづいてしまった所があった。

「吸血鬼として『目撃』されないのならば、それはそれでよかったのじゃ――別に、それは差し迫った問題ではなかった。
「問題は『神』として『目撃』され続けたことじゃ――後から思えば、名前を呼ばせんくらいでは足らんかったわけじゃ。

ー「鬼物語」p100より引用

この忍の述懐は、客観的には正しい。その通りだ。神として目撃され続けて居たから『くらやみ』が現れた。『くらやみ』が、本当に臥煙さんの説明する通りのものだとしたら、それが原因だ。しかし、忍はそれを知らない筈なのだが。
p100以降の忍の発言から、「神として目撃され続けていたが故の問題」のようなものを探したけれど、僕には発見できなかった。多分僕の見落としか勘違いなのだが、腑に落ちないなあ、と心にひっかかるポイントになってしまった。

シリーズを俯瞰して〜どうでもよい展開予想


今回は、既刊「つばさタイガー」で羽川翼が語った、3年次の2学期初めという時期を暦視点で語ったエピソードだ。双方あわせても語られていない部分もあるけれど、「つばさタイガー」の裏側は大筋で見えたと言って良いだろう。

そうすると、これまでのエピソードの中で未消化で、特別気になるのはこの点だろう。
  • 扇ちゃんは何者なの?
そもそも男か女かよく分からない扇ちゃん(ただ男の子と認識しているのは駿河だけで、それも女の子じゃなかったかと違和感をつけているけど)が、ここまで色々と事態に首をつっこんでおいて、最終巻に出番がない筈もない。どうなるのか全然予想がつかなくて、最終巻が待ち遠しい。

扇ちゃんと阿良々木くんが知り合ったのは3年次の冬近く(11月か12月の筈だ。囮物語(なでこメデューサ)の件がハロウィンで、それを『先月』と表現している以上は)らしい。だから本作は阿良々木くんが扇ちゃんに3ヶ月以上も前の出来事を話して聞かせていたのだ、という体裁になる。
扇ちゃんの自称する「嘘つきを罰する仕事」とは直截的に『くらやみ』を連想させるし、作中でも「『くらやみ』は現象に過ぎず、それを操る敵が別にいる」説はチラリと出てきた。だから扇ちゃんこそが『くらやみ』を操っていた張本人なんだ!と繋げるのは如何にも餌に飛びついてる感じがするし、もうひと捻りして「扇は操られてるだけで、黒幕は臥煙。全てを臥煙が操っているから、臥煙に知らない事はない」説にした所で大差はない。

もうちょっと適当な事を言うために、新たな視点を導入しよう。
今回のオチには、嘘があるんじゃなかろうか?
『くらやみ』が結局なんなのかは、臥煙さんが説明し、その末端エージェントである斧乃木ちゃんによって補強されただけで、客観的とは云い難い。というかそもそも、現実的でもないんじゃないか。

曰く、怪異はその存在を偽ってはいけない、と云う。『猿の手』と間違われた『レイニー・デヴィル』が実は冷や汗をかいていたのか。新種『ブラック羽川』は自身が『障り猫』ではないと申し開きをする義務があったのか。『幽霊』は、自分が『枯れ尾花』ではないと自己主張しないといけないのか…。どれも無理がある。
そもそも、怪異は人の目で見られ口で語られる、曖昧模糊とした存在だ。設定だって地域によって千差万別で、他の怪異と重複したり混じり合っていたりで、どれが正しい設定だというマスターピース、イデアルワンなんて存在しない
だから、機械的に自動的にルールに沿って、罰するべきものだけを罰する事なんてできやしないはずなのだ。基準の分からないタイムラグも含めて、そこには人為が関与している可能性が高い。そして人為であるなら、排除できる可能性だってあるのだ。

今回で、つまり3年次の2学期頭の時点において、真宵は成仏してこの世のものではなくなったはずなのだけれど、その8ヶ月ほど後にあたる花物語(するがデビル)において阿良々木くんは、「(真宵が)成仏しちまったら悲しいなあ」などと言っている。これは、結局成仏はしなかったと読んでもいい気がしてしまう。

(花物語については、囮物語との整合性もふまえて回収すべき線が残ってるけど)

総合すると、次巻恋物語は、卒業前のお話で、まず生存する為に撫子をなんとかし、なんなら夢渡を使ってでも生かしておき、並行して『くらやみ』に関与していると思われる連中を排除し、嘘を暴く。これにより真宵も成仏せずに済み、撫子ともども阿良々木ハーレムに復活し、めでたく3年生達は卒業となる。
しかし戦いに敗れた扇ちゃんは、阿良々木ハーレムに入れられるのを拒否する為に、自分は男だと無理な嘘をつき続けるハメになったのでした。ちゃんちゃん。

などという、どこが「ひたぎエンド」なんだよという馬鹿な展開予想で幕引きとする。

(なお、上記予想は言ってみたかっただけのお遊びであり、まず当たらないだろう。途中批判めいた事も述べたみたが全てこの予想に繋げる為の牽強付会であって、小さな不整合をとりたてて騒ぎ立てて貶めようという意図は無い。楽しく読めて、楽しくこの記事を書けた。)

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