色々思う所があったので速攻感想を。
前巻の最後でアミルさんとカルルクくんの元を離れたイギリス人、スミス。
これまでは観察者だった彼が、3巻ではもっと深い形で物語に関わる事になる。第2の乙嫁、タラスとの個人的な感情の交流によって。
ここからは思い切りネタバレになるので未読の方はご注意あれ。
読み終わってから振り返れば、娘から義母への心遣いと、義母が娘の行く末を案じる思いとが、タイミング悪くすれ違ってしまったという出来事だった。スミスはそれに巻き込まれたに過ぎない。
スミスもタラスもお互いを想っていて、もう少しタイミングが違えば義母もそれを祝福したろうに。ほんの少しの行き違いと、家というものが持つ強固な社会的壁によって阻まれた。
これがシェイクスピアなら、例え家という障壁に阻まれても、男女の愛情がそれを乗り越えようとする。終幕は悲喜あれど、少なくとも戦おうとはする。そういう物語が愛される土壌がイギリスにはある(乙嫁語りの舞台である19世紀においても)。
しかし中央アジアでは違う。家長の決定に娘が逆らう事は、周囲からみても一切受け入れられない。そもそも男女が恋愛感情でもってお互いを伴侶と定める文化がない。
文化の違い。中央アジアの文化を愛し、蒐集していたスミスが、その文化によって恋慕を踏みにじられた。
スミスは多くを語らない。表情も眼鏡のせいで余り窺えない。彼の胸中には何があったろう。
野蛮人め。
スミスがそう思った可能性が、ふと浮かんでしまった。もちろん、温厚な彼がそんな受け止め方はしないだろう、との期待も混じりつつ。
この時代に文化相対主義があったかは不勉強な事によく知らない(そもそも思想史は高校レベルすら怪しい)。奴隷貿易と奴隷制廃止、そして自由経済主義へという歴史を持つイギリスからすれば、アジアやアフリカの文化を遅れたものとする見方が支配的であったかも知れない。
しかしスミスはアジアの文化を、少なくとも好意的に捉えていた。戸惑う事はあっても貪欲に記録し集めていた。
もし今回の一件を、スミスが第三者として見ていたならば。「はぁ、そういうものですか」と言いつつ、手帳にペンを走らせるだけかも知れない。異郷での生き方を見下す事なく受け止められたかも知れない。
しかし当事者にあってそこまで冷静でいられるのだろうか。
「見つけた誰かが/拾うだろう」という投げ遣りな心の声が、単に金時計に向けられたものでなく、タラスに向けられたもの(適当な誰かが娶るだろうが、知ったことか)かも…と考えると、うすら寒くなる。
というわけで早くも次巻が待ち遠しい。何が気になるってアミルさんの次の獲物なんかではなく、「スミスはまだこの地を愛してくれるのか」に尽きる。
僕は、上記に書いたような懸念がただの僕の杞憂、ひねくれた妄想に過ぎない事を願う。
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