一言でまとめてしまえば、これは西尾維新氏の自己紹介なのかも知れない。彼らしく何重にも誤魔化してはいるけれど。
或いは、彼自身のこれまでの作品を読む際のガイドブック足り得るのかも知れない。だから、僕はこの本が「西尾維新ファンじゃないと楽しめない本」ではないと思う。
以下、ネタバレあり。
フィクション?
本作は、「とある小説家」が大学生の頃に体験した実話という体裁を取っている。この実話という部分はかなり強調されている。
そして、その小説家が(作家として、人間として)どんな人物かという情報は、かなりの部分で西尾維新氏本人のものと重なる。つまり作者自身が体験した話に見える。
…え?これって実話なの? まっさかー。
最初のうちは、フィクションに決まっていると思っていた。しかし本書のどこにも「この作品はフィクションであり、実在の人物・事件等とは何の関係もありません。」等の記載は無い。
だから客観的かつ確定的に、本作の出来事がフィクションであると断じる事はできない。ちょっと上手く出来すぎているとは思うが、血も凍る熱血の吸血鬼とか胸に刺すと人体を活性化させる刀とかいったファンタジーな要素が一欠片も出てこない以上、実際に起こり得ないとは言えないのだ。
本当の話だったら、ちょっと素敵だなあ、とは思う。
他作品と重ねて
僕がこれまでに触れた西尾維新作品を挙げておこう。
- 化物語シリーズ
- きみとぼくシリーズ
- 刀語(アニメで)
- めだかボックス(漫画で)
Uについて、規則正しすぎて気持ち悪い、というような表現が出てきた時には、羽川翼を連想した。まさかUは彼女の少女時代なのだろうかとすら一瞬思った。
最後に小説家がUに語り聞かせるシーンで、彼の作品を貫くテーマを開陳した時には、それってまんま球磨川禊じゃん、と思った。めだかボックスを読んでいてそう思わない人はいないだろう。
つまる所、これは西尾作品の根本的な種明かし・ネタバレに該当しかねない。だからと言って彼の作品の面白さは損なわれないと思うし、僕はこういうテーマが大好きでもある。
僕がUに語ったお話は……物語は、一般的ではない人間が、一般的ではないままに、幸せになる話だった。 (中略) 道を外れた奴らでも、間違ってしまい、社会から脱落してしまった奴らでも、ちゃんと、いや、ちゃんとではないかもしれないけれど、そこそこ楽しく、面白おかしく生きていくことはできる。
ー「少女不十分」p209−210より引用
太字は引用者による |
つい先日、「英国王のスピーチ」という映画の感想を書いたが、この作品の主人公にとって大きな困難になっている吃音症は、結局物語の最後まで治りはしなかった。
なんとか、どうにかこうにか、向き合い乗り切れるようになったという話だった。そこそこ上手くやれたという話だった。
他に、僕は RENTという映画が泣くほど好きだが、これにも同じ構造があった。主人公達はAIDSを抱えている。その問題は解決しない。それなりに楽しく生きていく。終わり。
(AIDSだからいずれ死ぬじゃん、という指摘はここでは余り意味をなさない。英国王だって柿本先生だっていずれ死ぬから。ここは物語の構造の指摘と理解して欲しい。)
全ての問題が綺麗に収まるところに収まって、人の善意やら有り得ない幸運――デウスエクスマキナ的な――によって何も問題が残らないハッピーエンド(ハリウッド映画の9割はそんな映画という印象がある)というのは、それはそれで爽快感は得られるのだろうが、非現実の体験でしかない。
実際にそんな事は有り得ない。ハッピーエンドは幻想だ。
一応補足すると、ハッピーエンドという幻想のうち、ハッピーはあるかも知れない。幸運と偶然が重なる事もあるだろう。しかしエンドは無い。生は続いていくからこそ生であり、だからハッピーエンドもバッドエンドもトゥルーエンドも非現実だ。
現実的な想像力を働かせて見るとどうだろう、何も問題が残らない状態になったとしたら?社会人なら間違いなく想像がつくはずだ。そう、新しい問題が発生するだけ。
だから、「問題を抱えたままでもそこそこなんとかやっていく」というテーゼは、全部解決してハッピーというアンチテーゼに比べて、随分と教育上もよろしいのではないかと思っている。
僕も病気は治らないかも知れないけれど、まぁそれなりに楽しくやっていけているし。
明日は「俺の妹〜」を読もう。そして隙間の時間にはテイルズオブエクシリアを進めよう。幸せ。
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