2011/08/04

書籍感想)障害を問い直す/松井彰彦+川島聡+長瀬修(編著)

久しぶりにがっつりとこの手の本を読んだ。頭の整理の為に個人的感想を記しておく。


長い感想になるが、前置きが三つ。
  1. 本書は論文集に近い構成になっている。軽い読み物といった体裁でも内容でもない。
  2. 冒頭「はしがき」にある通り、本書はこれまでとは違う新たな学術分野を切り開く為の土台固めとも言うべき段階のものだ。「まだまだこれから」なのは当たり前で、だからそこは批判の対象にはならない。
  3. この感想を書く僕は障害者ではない(本書には幾つかの定義が登場するが、その何れの意味に於いても)し、家族に障害者も居ない。悪く言えば野次馬だ。ただ、障害者を弟に持つ友人や、自身が障害者である友人や、自分が障害者になりかけた経験から、関心は高い方だと思う。こんな本を手にとって買う時点で関心があるんだが。
上記を踏まえて、感想を短くまとめると、こうだ。

「障害者ではなく、関心も大してない人」をもっと巻き込んでいく必要がある。本書内でも何度か触れられているが、まだ弱い。そのような人にとっては、最悪不快になるような内容も、含まれてしまっている。
おもねる必要がある、とは言わない。でも共感してもらう必要はある。そこをもっとブラッシュアップしていく為に、本書は「障害者ではなく、関心も大してない人」にこそ読まれるべきだと、そう思った。


内容紹介

まず、本書の内容のうち中心的で外せないポイントを一つ紹介する。それは障害の定義に関するものだ。

従来、および現行の考え方では、障害とは本人の心身における不能/不具の事であったり、それによって発生する不利の事であったりする。
ポイントは「本人の心身における」という部分で、要するに障害を持つ人個人の属性として定義している。このような障害の捉え方を個人モデルと言うそうだ。これは古い考え方。

他方、英米や国連、WHO等で採用され、日本にも持ち込まれつつある新しい捉え方を社会モデルという。


これは文字通り、障害の所在を本人だけではなく社会との関係に持ってくる。具体的には、例えば車椅子で生活している人は、エレベータのない建物では二階にあがれないが、エレベータさえあれば自分一人であがれる、などといった話だ。
日本でも、法整備はこれからだが言葉は輸入されている。バリアフリーとかユニバーサルデザインといった考え方は、障害を個人ではなく環境に依拠させる社会モデル的なものだ(ただ、バリアフリーを謳っていても実際は…って例もよく見かけるが)。

障害者を、法や行政がどう取り扱うべきかを整理すると、単純に次の二通り(或いはこの組み合わせ)しかない。
  • 財の分配
    直接的に言えばお金を渡す事。
  • 社会復帰の支援
    社会生活を送れるような状態になるよう助ける事。
経済的に考えて、前者だけでは具合が悪い。お金がかかり過ぎるからだ。だから可能な限り後者を、法や行政は選択したがる。

(障害者の立ち位置を考える際、このように経済的な見地を取り入れる事をタブー視する向きもあるらしいが、本書はそこを出発点にしているので)

障害を個人モデルで捉えている限り、社会復帰の方法は(障害というのはそうそう治るものではないという前提で)、障害を抱えたままでもできるような仕事をしてもらうしかない。現在はこれに近い。
しかしこれを社会モデルで捉えれば(「障害を問い直」せば)、社会的障害を取り除く事によって、心身に不能/不具を抱える人もそのまま、十全な社会復帰ができるだろうと考えられるわけだ。

批判、というより感想

最初に触れたいのは、冒頭にも書いた「障害者ではなく、関心も大してない人を不快にさせかねない」と僕が感じた部分だ。引用する。
先に言い置くと、以下は「障害者は自分を社会の重荷だとか恥だとか責めたりする事があるが、そんな風に苦しまなくてよい。なぜなら〜」という理由を説明する文脈である。

社会モデルは、障害者が経験している活動の制限や数え切れない不利益を、個人の身体それ自体ではなく社会的障壁や周囲の不適切な反応の結果と考えることで、社会のせいにする可能性を開いた
(一部略)
障害者は自己を責めたり恥じたりする必要はなくなる。なぜなら、彼らは社会のせいで「障害=ディスアビリティ」を負わされている存在なのだから。非難されるべきは、社会であって障害者ではない。

ー「障害を問い直す」p46より引用
太字は引用者による

――どうだろう? どうなのだろう?
これを読んでイラッとしたのは、僕が狭量なだけだと思いたい。ただ、僕個人の感想である事を強調した上で言わせて貰うならば、「社会のせい」は字面が余りにも悪い。他の表現を探した方がいい。

順番が前後するが、「障害者ではなく、関心も大してない人」を巻き込んでいく必要性について一応述べておく。それは、社会的障壁のうち人的障壁、一言でいえば偏見を減らしていくため、だ。

物理的障壁は排除が比較的簡単に見える(要するに適切な設備を作ればよい)のに、それですら上手くいっていない面がある。人々の障害者に対する排除的な認識=人的障壁を取り除くのはもっと難しいだろう。
障害者と彼らを支援する集団は、歯がゆいかも知れないが、自分達以外と対立関係になるべきではない。法や政治を相手に戦うのはいいが、人と戦ったらその時点で負けだと、危惧を覚える。

第7章の感想

前節にて僕が(恥知らずにも)表明した、「なんかイラッとする」感覚を、うまいこと説明してくれるのが、第7章「障害者は『完全な市民』になりえるか?」である。なんとも挑戦的なタイトルだと思う。

この章で用いられる概念が、互恵性だ。読んで字の如く、互いに恵む関係を指す。
ミクロな例で言えば、物々交換や商品の売り買いは、互恵性のある関係だ。窃盗や暴力的な略奪は一方的なので、互恵性がない。
これをマクロに拡げると、税金を払って公共サービスを受けるのは互恵性がある。税金を払わずに公共サービスを受けるのは互恵性がない。
互恵性は、広く一般から理解と共感を得る為の重要なファクターである。これは肌感覚から言っても充分頷ける話だろう。

さて、非障害者と障害者の関係に互恵性はあるだろうか? 無いとしたら、いかに良好な関係を気づけるだろうか?と言った所が本章のキモである。
全体を通して障害者を助ける方向にある本書(当たり前だ)の中にあって、この章はピリリと辛い。これは結論が楽しみだ…と思ってこの章を読み進めたが、現在の所「これこれの困難があるので難しいよね」という分析にとどまっていて、今後が気になるヒキであった。待て次号、である。

但し、第4節の末尾で語られている、互恵性を相対化しようという試みは失敗していると感じた。僕ら(広く障害者も含む一般)の頭と意識の中には既に、等価交換の原則は正当なものだという評価がかなり深く染み付いている。これをひっぺがそうというのは並大抵ではない。

現代の生産労働は、個人の貢献をますます見えづらくしている(中略)結果として生み出された貢献には、実は様々な主体が関与しているのであり、そこには従来貢献していないと見なされてきた人々も含まれるはずだ(中略)受益の正当性を評価する基準として、互恵性というフィクションにどこまでこだわる必要があるのかはいっそう疑わしくなっている。

ー「障害を問い直す」p251より引用
太字は引用者による

互恵性は絶対ではない。そこは同意する。ただそれは、世間一般の過半数を超える人が同意して初めてこだわる必要がなくなるのではないか。上に引用したようなレトリックは、「じゃあ、これまで気づかれていなかった障害者の貢献って具体的には何なのか教えて下さい」と問われて窮するのではないか(無いわけではない。それが全ての答えにならないだけで)。

ここで相対化の対象となるのは、現行の社会システムは危機に瀕しており、また、その危機に対して互恵性基準が有効な処方箋になりうる、という命題群を自明視する社会意識である。(中略)たとえば、社会システムの持続性はそれほど心配する必要がないかもしれず、互恵性基準は人々の貢献を引き出す仕掛けとして不要ないし過剰であるかもしれない(中略)私たちはすでに、貢献を脅迫的に要請する必要がない程度には、成熟した社会に生きているのかもしれない

ー「障害を問い直す」p251〜252より引用
太字は引用者による



ぎゅっとフランクにすると、「みんな互恵性があって当たり前だって思い込んでるだけで、実は気にしなくてもいいんじゃね?」という事を言ってるのだと理解したけど、そんな「かもしれない」で、自身が紹介した(p234〜235では互恵性に依拠した理論や議論まで挙げておいて)概念を「実は要らないんじゃね?」と言われても、ね。ちょっと無理。

互恵性の話は一旦ここまでにして、後でもう一度触れようと思う。

障害差別禁止法について

障害差別禁止法とは、読んで字の如く、障害がある事を理由にして差別をしてはいけないという法律である。現在すでに存在する法律ではなく、成立が目指されている段階のものだ。

本書の中では、異形差別という問題が紹介されている。それは、顔などの目立つ部位に痣や火傷のある人間が、機能障害は何もないにも関わらず、見た目だけの理由で差別を受けているというものだ。
障害差別基本法は、障害とついているものの、この異形差別もカバーしようとしているそうだ。

この点は、当の障害者からも誤解に基づいた懸念の声を聞く事があるという。つまり異形を持つ人が障害者に含まれる事で(ここが誤解。差別を禁止するだけで、手帳を交付しようというのではない)、より重度の障害者に渡る金銭やサービスが減るのでは、という懸念だ。

筆者はこの懸念について「パイの奪い合い」と表現し、その心配はないとしている。僕はこういう応答が、「障害者ではなく、関心も大してない人」を無視し過ぎていると思う。こっちは毎日がパイの奪い合いなのだから。

彼らの推進するように同法が成立したとする。しかしそれだけでは、顔に目立つ痣のある人が企業の受付とか広報といった「会社の顔」になる例は増えないだろう。誰がどう思うか分からない、容姿差別的な考えの人間であっても客なら気分を害させてはいけない、と多くの担当者は考えるからだ。そしてそうした考え方はなんらかのきっかけがない限り揺るがない。
実際、男女雇用機会均等法ができて看護婦と看護士が看護師に変わっても、受付夫という職業は聞かない。見た目は大事、だと思われている。その認識が正しいかは知らないが、そう思われているのは確かだ。

障害以外の問題へ

障害から出発しても、突き詰めて考えていくと他の問題に拡がっていってしまう。それはどんな問題でもつきまとう困難だが、だからこそ障害者ではない人を巻き込んでいかなければいけないという僕の連想を述べて最後にする。

上で紹介した採用と求職の例は、労働の問題にも直結している。こんな例で考えてみた。

例)下肢に運動障害があって移動に難のあるA氏と、非障害者であるB氏の2人が、事務職に応募してきたとする。
事務職で求められる仕事の全ては、A氏でも問題なくこなせるものとする。
また仮定として、不採用の理由は明らかになるものとする。

上記の例で、選考すらせずにA氏を落としたら、それはNGだ。この点は議論の必要性は低いと思う。

次に、選考したところ、A氏の方が事務処理能力が高そうだと判断されたにも関わらずB氏が選ばれたとしたらどうだろう。NGだと主張する層は当然そうだと主張するだろう。
NGとは限らない、とする主張もありうる。それは例えば、担当者が不測の事態への対応も考えて、B氏の方があらゆる状況に対応する適応力が高いと判断したせいかも知れない。(他の例もあるが割愛)

他方で、こうした判断を許しておくから日本の企業はブラック企業ばかりなんだ、とする向きもある。つまり、募集時に事務職とあった以上、それ以外の仕事を振りたがる事が間違っているという価値判断だ。契約以外の事は徹底的に請け負わないという姿勢は、今の日本では支配的ではないかも知れないが、労働者を保護する方向のものだ。

するとこれはもう労働問題といって良い。障害だけの話では済まないのだ。

更にずずっと戻って、互恵性の話。

互恵性が全く必要とされず、しかも殆どの人々がそれを当然と受け入れる社会というものを上手く想像できなかったが、一つだけ具体的になったイメージがあった。それは仏法法話の世界だ。

仏教では、貧しい者や持たざる者に施しをするのは素晴らしい事だが、見返りを求めてはならないと説くという。その理由は、施しをしたという事実、それ自体によって、既に「功徳を積むことができた」という見返りを受け取っているのだから、相手にそれ以上を求めない、というのだ。
してみるとこれも互恵性なのだが、仮にこういう価値観が社会で支配的であれば、施しを受けた側は施した側に何も返さなくていい。

別に仏教である必要はない。上記は例に過ぎない。が、一般的にこういう「現実世界で支配的な価値基準とは違う(正反対の)価値観」っていうのは、これまでの歴史でいえば宗教が提供してきたように思う。
本書では随所に、資本主義(少なくとも資本主義偏重)を憎むような蔑むような香りを感じる。それはそれでいいが、資本主義は現に支配的な価値観なのだから、それを否定しようというなら代替の価値観が必要になってしまう。ベーシックインカムの問題点は財源だけではないのだ。

というわけで、互恵性の話を初めとした、金に関わる問題を突き詰めていくと、宗教的な、価値観逸脱的な話になってしまう事がある。そこまでいかなくても、人生観(何を大切にして生きていくのか)という話には膨らんでしまう。
そうするともう障害者だけの話ではない。Nothing about us without us. である。

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