ビブリアシリーズを読んでない人に「氷菓の舞台が古本屋になった感じ」と説明したら大体伝わってしまいました。日常ミステリというジャンルになるんですかね。殺人事件は起こらないけどしっかりミステリしているこのシリーズ、第3巻のご紹介。
1巻は主人公と栞子さんの出会い、2巻では栞子さんの母親(失踪中)が色々ヤバい人だったという話、この巻ではその母親への距離を更に縮めていきます。
まぁ栞子さんが母親との葛藤に一段落つけない事には大輔とくっつけそうにないですからね。ってそんな理由ではないのですが。
以下、ネタバレはありません。
各話概評
この巻の最初の話ではロバート・F・ヤングの「たんぽぽ娘」という短編が登場します。僕は以前「たんぽぽ娘」が登場する演劇を観た事があってとても印象に残っているので、すぐにその舞台を連想しました。
「おとといは兎を見たわ。きのうは鹿、今日はあなた」
僕の中でこの名台詞は岡田さつきさん(女優)が発しているものとして記憶されておりまして、本の記憶といっても他の色んな記憶と混じってしまっているものですね。
2つ目の話では、原作とその原作をアニメ化したものの間で記憶の齟齬が起こってしまっています。
2話目タイトル『タヌキとワニと犬が出てくる、絵本みたいなの』は、もちろんこれが原作のタイトルというわけではないのですが、この作品をアニメ化したものは現在の日本でもそれなりに有名です。メインキャラクターを目にした事のある方も多いのではないでしょうか。
でも、タヌキとワニが出てくる〜と言われてその作品を連想できる人はまず居ないと思います。
- (DVDのリンクを貼ろうと思いましたがネタバレになるのでなし)
3つ目は宮沢賢治の「春と修羅」が登場します。
僕は賢治について殆ど知らないので、この本が出版された後も彼が推敲・改稿を繰り返していたという事実も知りませんでした。
この件を知ったことで、これまでの僕の持論というか考え方が一部改められるに至りました。
作品の外の情報は…
最近のアニメなんかだと珍しくもないんですが、作品内部の謎が副読本や解説本を読まないと解明されなかったり、雑誌等でとある演出について監督がインタビューに答えていてそれを読まないと意味不明な場面だったり、そういう「作品の外で語られる情報」をこれまで僕は毛嫌いしてきました。
作品の中で語ってくれと。詰め込めないなら切り落とせと。それか尺伸ばせと。そう思っていました。
(毛嫌いという表現が相応しいほど嫌うようになったのは、某O監督の劇場版Pのせいですが…)
「詩集・春と修羅」の初版が出た当時に僕がそれを入手したと仮定すると、「賢治が『詩集』という表現を改めたいと思っていること」や「賢治が作品自体を更に推敲したいと思っていること」は全て「作品の外の情報」ですから、僕はそれらを好ましく思いません。
しかし時を経て「春と修羅」は版を重ね、賢治が遺した推敲を反映したものも出版されています(詩集と銘打ってるものは今でも見つかりますが)。
してみると、本が出版された時点でそれを完成(もうこれ以上よくしようがない状態?)と見做すのもおかしな話です。事実舞台芸術では上演した後の手直しなんていくらでもありますし、直さない方が怠慢だと思っているくらいの僕なのに、どうして本に対してはこんな勘違いをしていたのでしょう。
本だけでなくアニメでも映画でも何でも。封切られたらそれ以上手直ししてはいけないなんて法はないですよね。
そんなわけでこれからは、作品外部で語られる情報にもそっぽを向かず、好きな作品についてもっと知りたいという自然な欲求に基づいて、色々情報を集めてみるのも良いかなぁ、と思い直しました。
ただ、それ始めると際限なくお金がかかりそうで困るんですけどね…。流行りの作品は色んな雑誌にインタビューや裏話が載っていたりするものですから…orz
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