2012/01/07

書籍感想)ビブリア古書堂の事件手帖(2)/三上延

前作を読んですっかりお気に入りになったビブリアシリーズ、二冊目を買ってきたので早速ご紹介。

登場人物や形式は前作と引継ぎつつ、今回は二人の主人公の過去にスポットライトがあたってゆく。といっても回想はそんなに多くなくて、あくまで現在進行形の出来事から過去が透けて見える程度。
前より栞子さんが好きになれたし、前より大輔くんを応援したくなったよ。以下、思いっきりネタバレあり。


ニヤニヤモード

前作ではやや曖昧な点があったけど、もう完全にこの2人、付き合っちゃいなよ、と。ニヤニヤできます。大輔くんは開き直って栞子さんのおっぱいについて詳しく描写すべきだと思います。

「……大輔さんも、帰ってゆっくり休んで下さい……明日は、忙しいですから」
「はい、分かりました……え?」
答えてから首をかしげた。大輔さん? 助手席を見ると、彼女は両手で口を押さえている。
「ご、ごめんなさい。高坂さんがずっと名前で呼んでらっしゃったので、つい……移ってしまったみたいで」
「別にいいですよ、大輔さんで」
そう呼ばれるのは単純に嬉しい。より親密になった気がする。
「分かりました……そうします」
彼女は意外にあっさり応じ、
「大輔さん……大輔さん……」
暗唱するように口の中で小さく繰り返す。そういえば、男性を名前で呼んでみたい、とういうようなことを言っていた。
「……じゃ、俺も栞子さんって呼んでもいいですか」

ー「栞子さんと謎めく日常」P177〜178より

ニヤニヤが止まらない。そして何故だろう殺意が沸く!あぁもう。

真実を暴くこと、など

栞子さんは探偵ではないけれど、この本をミステリとして読むなら探偵役は栞子さんに他ならない。機能としては「真実を暴く」役割を担っている。
栞子さんの推理が「鋭過ぎる」事に懸念を抱く人物は以前にも登場したが、今回も司馬遼太郎の言葉を引用する形で問題提起がなされている。

私は、探偵小説に登場してくる探偵役を、決して好きではない。他人の秘事を、なぜあれほどの執拗さであばきたてねばならないのか、その情熱の根源がわからない。(一部略)精神病学の研究対象ではないかとさえおもつている。

ー「豚と薔薇」あとがきより

この種の、「探偵役ってどうしてそこまでするのよ」という問いかけは古今東西なされているようで、最近だと「うみねこのなく頃に」もそんなテーマを含んでいたように思う。

身も蓋もない言い方をしてしまえば、探偵がそうでなくっちゃ謎が明かされないからであり、謎が明かされないならそれはミステリ作品ではない(少なくとも僕にとっては)からなんだけど。それはさておき。

本巻ラストで大輔くんが探偵役に挑戦する際、彼はまず真実を詮索して良いものかと思案を始めて。しかし割とあっさりと(彼は体育会系というか、すぱっとした性格で好ましい)決断して推理を開始する。
この決断も、きちんとこの巻の中で紹介される彼自身の体験からくるもので、そういう繋がりが整然と辻褄があっていて、心地の良い構成だ。

ところで、「精神病学の研究対象でないか」と思われる探偵役といえば西尾維新「きみとぼく」シリーズが連想される。病院坂黒猫。彼女は解けない謎があると死にたくなってくるから真実を暴くという、殆ど偏執狂的な、ご都合主義ここに極まれり的な(誉めてます)個性の持ち主だった。
逆に「DEATH NOTE」の探偵Lなどは、自分が謎に立ち向かう理由について単純に「正義の為」と表現していた。

  

探偵役にも色々いるという話を前置きに、栞子さんがどんな動機を持って推理を行っているかというと、今の所はっきりしない点が多い。というか、無意識的もしくは自動的に推理してしまっているように見える。そこが危うい。お母さんとの顛末で改めて予告されたように、彼女はどこか危なっかしい。大輔くんがついててやらないと。

本の内容とは関係ないんだけど、栞子さんの結婚しない宣言と似たような台詞を、前にどこかで読んだような気がする。確か男性だったような…。
その人物の父親には浮気癖があり、幼い自分と伴侶を残して家を出ていってしまう。彼は父親を憎みながら育つが、成長するほどに容姿が若い頃の父親と似てきてしまう。それで栞子さんと同じような事を言う、そんな話があったような…。思い出せない。なんだっけ。気になる。

本と人の境界

前作を読んだ時にも書籍の電子化について考えさせられたんだけど、今回も改めて。
栞子さんのような本好きと、僕のような無情の裁断者をあえて対立させる必要もないんだけど、大きな違いを感じるのではっきりさせておこうと思う。

栞子さんは「本に纏わる事であれば」脳の回転速度が急上昇して人格まで変わってみえるという設定だが、その「本に纏わる事」のフィルターはかなり曖昧である。正確には本の事と言うよりも、本を扱う人の心に敏感なのだ。
だからなのか、彼女が本を読んだり本について語る時、それは必ず人とセットで不可分なものとして扱われる。本と人と間のラインが曖昧で、ぼんやりと溶け合っているように見える。本は所有者の一部だという認識なのだろう。

一方で僕にとって、本とは単に客体(Object)の1つであって、手に持った場合には皮膚までが僕でそこから先が本だとはっきり分かれている。そういうものだと理解していたし、そういう風に自分から切り離して置かないとバラバラに裁断なんて出来ない。

本と余計なもの

「クラクラ日記」を母親から贈られた際、栞子さんは読まずに流してしまったという。それは内容を知っている(既に読んだ事がある)から改めて読まずとも良いという考え方で、僕の考えと近い点もある。
しかし彼女はこれを後悔していて、その本に母親の痕跡が刻まれてはいなかったかと探している。それは書き込みかも知れないし栞かも知れないしカバーかも知れない。彼女はその「何か」を探し求めている。

誤解を怖れずに言うけど、僕のような人間にとってそんな「何か」は本にとっての不純物として排除したい対象である。(個々人考えは違うけど)作者のサインなら良いが、作者以外の人間が本の中身に手を加えて欲しくない、手を加えてあるならそれを取り除きたい、と僕は考える。

僕は僕なりの方法で本好きでありたいと思っているんだけど、なんというか溝は深いのかも知れない。おかしいなぁ。


それはそうと、お話はいよいよここから!という感じに静かに盛り上がって参りました。3巻の発売を心待ちにしています。

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