小説版の中巻を読んだら色々と整理がついたり、素直に面白いと思ったので、ややとりとめもないけれど雑感をまとめておく。
以下、ネタバレ含み。
まず、アニメ版と小説版は同じ話だと言ってしまってよい。一方にしかないエピソードというようなものは存在しない。ただ、セリフに表れない心理描写を行うのが、映像か文字かという違いがある。
受け取る人によって、映像の方が瞬間的にピンとくる人と、文字の方が飲み込み易い人が居て、僕は断然後者である。けれども、上巻を読んだ時には余り新しい情報を感じなかった。アニメ版で表現されている事が、過不足無く文字になっただけに感じた。
中巻は違う。僕には映像から読み取れなかった内容が多かった。文字派の人は中巻を読む価値が多いにあろう。
以下、僕にとっては新しい発見だったこと。
ひとつ。冠葉の(陽毬への)気持ち。ひとつ。苹果の(周囲への)気持ち。ひとつ。「何者にもなれない」存在に対する理解。
冠葉の気持ち
そりゃあ、アニメ版を観ていたって、冠ちゃんが時折、妹に対して女性的な魅力を感じて困ってしまっているのは理解できた。でもそれは、「最近おんなっぽくなりやがって困っちまうなあ」的な、つまり対等な女性として恋愛対象として扱う事は絶っ対に無い事を前提にした上での「困る」だと、僕は思っていたのだ。いわば京介が桐乃を見て困るような。
小説版読むと違うね。っていうか冠ちゃんもう落ちてるね。陽毬を女性として扱う選択肢を、家族としての仮面を貫く選択肢と天秤にかけている。その時点でもう兄として守るべき最初の一線は越えているよ。
ただ冠ちゃんの場合、例えば危ないアルバイトをしてお金を稼いでくる行為が、(女性として)陽毬の為なのか(家族として)妹の為なのか、自身でも不可分になってしまう辺り、切ねえなあ。どっちの為であれ、彼が身体を張る事に変わりはないんだし。
結局ピングドラムが冠葉の何なのかは未だ闇の中。プリンセス、内緒はあんまりです。
冠ちゃんは死亡フラグばっかり立っていて、心配しても仕切れない。
苹果の気持ち
苹果ちゃんは行動も言動も些かエキセントリックで何を想っているのか分かりづらい感があったけれど、文章で読むと整理もつきやすい。
物語の開始時点から上巻の間、彼女は一貫して「自分は桃果になる。それが運命で、そうすれば家族が復活する」と盲信して突き進んで来た。一本筋の通った、でもそれだけしかないキャラクターだった。
それが、ゆりによって日記の半分が持ち去られる事によって崩れる。同時に晶馬は交通事故に遭い、彼との意外にも近い心理的距離に驚く。これまで彼女を貫いていた一本筋が揺らぎ、代わりに別の行動原理が接近してきた。
後はもう芋づる式。
カエルの魔術にかかった多蕗を拒絶した自分に驚き、
どんなに珍妙な、理不尽に思えるようなことがあろうと、苹果も彼も、それに屈しないという点においてはいつだって意見は一致していた。でも、それが、この状況とどういう関係があるのか。なぜ、その影がちらつくのか。まるで、安心な家の窓の明かりのように。 ー「輪るピングドラム(中)」72pより |
ゆりに自分の気持ちを指摘されて、
ひとつだけ確かなことがあった。苹果は晶馬が現れてから、泣き虫になった。彼がいると口から出る言葉は乱暴でも、自分でも気づかぬうちに、ちゃんと泣くべき正しいときに、上手に泣くことができるのだった。 ー「輪るピングドラム(中)」75pより |
もうこの時点で既に堕ちてるよね、この娘。
それを自覚してしまえばもう多蕗に固執する意味合いも薄れ、ゆりに対する敵愾心もなりをひそめる。その流れがとてもスッキリと整理できた。
晶馬への告白の仕方とかは、やっぱり苹果ちゃんなので独特のものがあって、応援したくなるよりは一歩引いて見ていたくなるような感じ。がんばれー。
「何者にもなれない」存在
「きっと何者にもなれないお前達に告げる!」は、印象的なフレーズで頭に残ると共に、意味する所がはっきりとは分からないままだった。が、小説版でちょっとしたヒントが提示されたように思う。
多蕗の回想、こどもブロイラーのシーン。
「怖くはありません。ただ、誰が誰だかわからなくなるだけです。きっと何者にもなれなくなるだけですよー!」 ー「輪るピングドラム(中)」299pより |
アニメ版(18話)では、太字箇所は「透明な存在になるだけ」と言っていた。
こどもブロイラーにかけられると、こどもは「きっと何者にもなれない」存在に成る、らしい。そしてプリンセスによれば、高倉兄弟は既に「きっと何者にもなれない」存在である、らしい。
苹果はプリンセスと2度出会っているが、そのどちらにおいても件の決め台詞は発せられていないから、苹果は該当しないのか。
こどもブロイラーの描写はひたすら殺処分を連想させるけれど、親から愛されなくなったこどもをまとめて扱う方法としては余りにも現実離れしていて、どうも事実にメタファー表現が被さっているように思えてならない。
多蕗が親から何か深刻な虐待を受けそうになった所で、桃果が運命の乗り換えを行い、それで手に火傷のような傷を負った、というのが実際に起こった事ではないか。
こどもにとって、親の愛情を失う事は深刻な損失だ。例えそれがゆりの父親のような、多蕗の母親のような偏愛であったとしても。そして高倉兄弟は既にそれを失っている。どころか両親が遺していった運命は負の遺産だと捉えている節すらある。特に晶馬は。
これから?
ひとは優しくされた分だけ優しくなれる、などというのは最早出典を引く事が難しいくらいに使い古された麗句だが、的は射ている。高倉三兄妹の真っ当に育ちっぷりは奇跡的といってもいい。多分そこには、末の妹の身体が弱いために、兄達は強く優しくならざるを得なかったから――といった説明がつけられるだろう。
だとしたら、その妹が死んでしまったら?
陽毬の死は多分もう起こった事だ。兄弟は妹を失い、優しさを失うだろう。
冠葉はヤバい。剣山の組織と繋がりを持っているから。その憎しみを世間にぶつける術を、彼は持ってしまっているから。
晶馬は、苹果次第。桃果がゆりと多蕗を救ったように、苹果は晶馬を救い得るポジションにいる。頑張れ、苹果ちゃん。
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