2011/10/21

リア充と非リアを隔つもの;愛?

先日、orangestarさんのブログが更新された。

ベストセラー作家だけどハックルベリー(id:aureliano)さんの質問にこたえるよ!

ハックルベリーさんというのは「もしドラ」の作者さんですが、こちらは置いといて、僕はorangestarさんのエントリに心を揺さぶられたので、そっちの話をしたい。


世間的に通りの良い説明をするなら、orangestarさんは実写ドラマにもなった「となりの801ちゃん」の作者であり、801ちゃんの旦那さんである。
僕は、結構昔に「○ーメン大好き小池さん」で彼の漫画を初めて読んで(確か最初にみたのはコレだった。性的描写が多いので注意)、その後サイトにある他の漫画も全部読んだ。当時から「傷物の赤」もサイトに載っていて、失礼ながら「病んでるなぁ」と感じたのを覚えている。

さて今回のエントリで僕がぐっと来たのは、承認欲求と愛のくだりである。

本が出た事は嬉しかった(中略)。でも、自分の胸に空いてた穴みたいなからっぽの虚無は全然埋まらなかった。(中略)承認欲求というのなら、それは本が出たり、本が売れたりすることで埋まるものではなった。

(略)

ある時、(中略)気付いた。“ああ、この子は本当に、こんな駄目な僕の事が、打算なく、本当に好きなんだって”。
そして、多分、そのころからです。自分に承認欲求が無くなったのは。正確に言うと、承認欲求が、やっとみたされた。自分が何をしても、どうなっても、この子は自分の事を肯定してくれる(中略)。そして、その、うまく言葉にはならないですけど、肯定とか承認とかの2人の間の循環で、あんなに苦しかった承認欲求とかはどこかにいってました。


大幅に省略してしまって本当に申し訳ない。要旨だけ。

細かい所は全然違うし、ベストセラーを出してもいないけれど、【彼女(のちの妻)の肯定によってなんとか自己承認を取り戻して立ち直った】という経過を、5年ほど前に僕も体験した。本当に、書いてくれた通りだと思う。承認欲求の充足という理屈で、当時の僕の情動にはぴたっと説明がついた。
全面的な肯定というのではなく、根源的な肯定というのだろうか。自分が何かしたりしなかったりは関係なくて、自分がここに在る事を肯定してくれる愛情だった。それがなければ、自分を肯定してやることができなかった。

この体験を語る時にorangestarさんが、リア充との格差という言い回しを使った事と、承認欲求は本が売れても満たされないと書いた事で、ぴんときた。

もしかして:リア充と非リアの壁

「恋人が居るかどうか」とか、「コミュ障かどうか」とか、リア充と非リアの境は色んな説明がされるけれど、本質的な違いはこれで説明がつくんじゃないか、と思って。

世の中には、本が売れる(=仕事が上手く行く)事によって承認欲求が満たされる人も少なからず存在する。彼らこそ、僕ら非リアがリア充と呼んで呪い羨む人達なのではないか。

根源的な肯定、自分を丸ごと認めてくれる愛情がないと自己肯定できない(承認欲求が満たされない)のが非リア。
それ以外のステータスによって承認欲求を満たせるのがリア充。

比較:反応の違い

例えばリア充は、「友達が多い」というステータスに依って自己肯定ができる。だから友達に囲まれてると嬉しいし楽しいから、周りも楽しませる事ができて更に友達が増える。
非リアは、友達と楽しい雰囲気に包まれてる時でも、心のどこかで「俺なんて…」と承認欲求が満たされていない。だから心持ちダウナー。楽しくなりきれない。周りもそれに気付く程。

例えばリア充は、仕事の成績が良ければ幸福感に繋がる。自然と。だから仕事が上手く運ぶほどますますバリバリ仕事ができちゃう。テンションもあがる。
非リアは成績が良くても幸せを感じない。周りから見ても何故か不幸そう。「アイツ業績トップだったのになんであんな仏頂面なんだ?」とか思われちゃってる。

リア充が落ち込んでいても、慰めるのは難しくない。例えばお疲れパーティを開いて、沢山の心配してくれる友達が居る事を伝えてもいい。受注率の高い案件を回して、その人の成績になるよう手回ししてやってもいい。悩みが解消しないとしても、それで幸福感をプレゼントできる。
非リアが落ち込むと結構、かなり性質が悪い。手のつけようがない事もある。上であげたような表面的な幸福感では、食欲や物欲は満たせても承認欲求は満たせない。「みんなあなたの事を大切に思っている」なんて言葉をかけても「嘘だッ!!!」が関の山だ(レナの物真似をする余裕がある内はいいが)。

こうして書き出すと(かつての僕も含めて)非リアって扱いづらいと改めて。

自己肯定と非リア

一方で、自己肯定に成功した非リアはもはや非リアとは言えないかも知れない。ただ在る事を承認して貰っているから、物理的に独りでいようが、仕事で失敗しようが、根っこにある幸福が揺らぐ事はない。
状況や他者との関係性に依って、アドホックに幸と不幸を感じているリア充より揺るぎないものと言えるだろう。(と書く事でリア充を下に見ようとしている。暗い)

他方で、自己肯定できないでいる非リアは大変だ。しんどい。だからなんとか自分だけで組み立てようとする。
ある者は、自分が世界を救った勇者の生まれ変わりだと信じ込む。またある者は本当の自分はスポーツ万能で頭脳明晰なのを隠しているだけだ、という設定にする。
笑いものにするつもりはないし、僕には笑えない。恥。

本当の自分を愛してもらう為の第一歩は(無闇に出会いを求める事ではなく)、嘘をつかない事。どんな後付け設定も、承認欲求を満たすというゴールからは遠ざかるばかり。

リア充の生態

しかし一体、どうしてリア充と非リアの差があるのか。非リアはリア充になる事ができるのか。別に友達を作るために部活を始めるとか、仕事や趣味の腕を磨くという意味ではなく。
人と居る時間や、仕事や勉強での成功を、素直に楽しむのは良いと思う。これは単なる意識改革で、できないという事はなさそう。心から喜び楽しむ習慣を意識的に続けていれば、自然とそう感じられるようになるはずで、それはきっとハッピーな変化だろう。

まぁそれでリア充になれれば苦労はないですね、そうですね。

JーPOPとか西野カナとかみたいな、“君がいるから僕がいる”みたいなことで、リア充村の人間はこういうめんどくさいプロセスなしに、承認欲求とか渇望や絶望のない希望の大地に住んでいた&住んでいるのかと思うと格差社会に腰が抜けそう


多分承認欲求がない人間は居ないのでしょうが、リア充はそれが満たされるハードルが大変低いように思います。低いと言うと失礼にあたるなら、ストライクゾーンが広いと言ってもいい。
今はそうでもないけれど、羨んだ事もあったっけ。

僕にとっての典型的リア充という知人を思い起こすに、いつも小さな事に幸や不幸を見出す人だった。僕から見れば、そんな事で幸福なんて言葉を使うのは大げさじゃないかと思う小さな「良かった」でも、幸せという表現をしていた。
少なくとも、自分が幸せになる要素を探して、見つからなくって渇望して、悩んだ事なんかは無さそうに見えたなあ。格差である。

かく言う僕も、自覚は乏しいものの「世間的に見ればリア充」らしいです。多分チベさんもそう。
僕の場合は、確かな幸せを一つ見つけたから焦って探していないというだけで、リア充みたいに沢山の幸せに囲まれているわけではないですけど。

こんな風に理解すると、彼らと僕らの壁は結構高くて、融和しがたい感じがするけれど、どちらかといえば僕らの側が、リア充な皆さんから学ぶべき点が多いのかな。

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