日本マイクロソフト、タッチでジェスチャー操作可能な無線マウス 拡大画像(具体的の操作) |
第一印象は良くなかった。特にリンク先の画像にある操作方法を見て、「うわあ、人間の直感に基づかない、製作側が勝手に決めた操作方法だなあ。誰がこれをわざわざ覚えて使うんだろう」的な事をまず思った。
(ガジェット好きではそれでも使うけれど、それはおいといて)
しかし、落ち着いて考えてみて感想を改めた。
「マウスにせよソフトのUIにせよ、人間が自然に習得した直感に基づいてるものの方が少ない。だからそこは問題ではない。問題は、囲い込まれた自覚があるかという点くらいだ」
直感に基づかないのは何故か
コンピュータの中は、言うまでもなく、我々が暮らしている現実空間の物理法則に影響を受けないし、全く違った法則で動いている。
我々の直感は、普段暮らしている現実空間で自然に獲得されるものだから、噛み合わないのは当然といえば当然だ。
だから、コンピュータに詳しい人間がそうでない人間に説明しようとすると、大体いつも困難を伴う。なにしろ説明したい事柄と同じ概念・現象は実際の生活の中には存在しないのだ。
説明を受ける側は、常々「パソコンの事はよく分からない。直感的に使えないし」などと言う。そこで詳しい側は、色々と現実空間に結びつけた比喩を使って説明を試みてきた。
例えばゴミ箱だ。
保存していたものが要らなくなったら、それをどかして場所を空けたい。しかしいきなり捨ててしまっては、もしもの時に困るかも知れない。だから一旦ゴミ箱に移し、しばらくしてから本当に廃棄する。――という比喩としてゴミ箱は存在する。
しかしながら、少なくない人が知っているように、ゴミ箱を空にするという操作をしたところで、ディスクからファイルが消えてなくなったりはしない。だから専用のソフトを使えば消す前に戻す事もできる。
この事を、比喩を使って(現実空間に喩えて)説明する事はできるだろうか?
「住所録からある住所が消えたとしても、家そのものがなくなるわけじゃない」というのが思いつく限り最善の表現だけれど、これではゴミ箱云々という話は説明不可能だし、もっと突っ込んでディスク上にファイルが分散して保存されている状態や理由を説明しようとすると更に破綻する。
ファイルアロケーションテーブルなどというシステムというか概念は、それに似たものすら、現実空間には無い。FATだけではない、大抵なんだってそうだ。そういう目線で言うなら、フォルダとかディレクトリとか言われているアレだって、現実空間でいうフォルダとは違うもので、フォルダと呼ぶのはただ説明の為の比喩なのだから。
昔を振り返ると
とはいえ、人間の生活にコンピュータが溶け込んで久しい。
人間が直感でコンピュータに触るだけではない。コンピュータが人間の直感に影響を与えるのだ。これはもう随分浸透している。
例を示す。ディスプレイに写真が表示されている。背景はコルクのような模様になっていて、さもコルク製のメッセージボードに写真が張り付けられているという表示だ。
それを見て、「この写真はどうして画鋲が刺さっていないのに(重力に従って)下に落ちないんだ?」という疑問を抱く人は最早居ないだろう(昔は本当に居たんだそういう人が!)。
笑い話かも知れないが、自身の直感に問い直して欲しい。普通、ディスプレイくらいの角度の板に写真を置いたら(そもそも置けないが)当然落ちる。しかしそれを疑問には思わない。それは、そういうものだという刷り込みが既に完了しているからだ。それこそ「人間が現実空間で自然に獲得する直感」に他ならない。
多くのユーザ(つまりWindowsユーザ)は、ウィンドウを閉じたい時には画面の右上に目をやる習慣がついている。そこに閉じるボタンがあると直感的に思うからだ。
嘘だと思うなら試しに他のOSを触ってみるといい。閉じるボタンは右上にはないと頭では分かっていても、慣れる迄は目が勝手にそちらに行ってしまう筈だ。
ベンダーの戦略
要するに、人間の直感などといっても要するに慣れであり、新しいルールにどっぷり漬からせてしまえばそれは不自然ではなくなる。それが当然になるのだ。
ベンダーは、自分達のやり方をライバルと違うユニークなものにしたがる。それは革新的でもあるし、これに慣れたユーザはライバルの製品を「使いにくい」と思ってくれ、囲い込みが成立しやすいからだ。
MicrosoftOffice2003から2007への大きなUI変更は、かなり大胆なものだったけれど、2007に慣れてしまえば2003は使いづらいし、2003と似た他社オフィススイートも使いづらく感じるだろう。
(否定的な意見をよく目にするが、個人的にリボンUIは嫌いではない。洗練された効率的なUIだと思う。囲い込みの為だけにおかしなやり方を強要しているわけでは、決してない)
この戦略を推し進めるなら、ベンダーは学校を狙うべきだ。それも初等〜中等教育がいい。「最初に慣れ親しんだ」習慣は、やはり他より強いからだ。
実際、ちょっと探しただけでも事例が見つかった。(KDDI/東芝とインテル)
これが良い事か悪い事かは措く。とにかくこれが社会の流れだ。上に紹介したようなベンダーの動きは、利益を追求する私企業が勝手に教育の場に食い込んでいる、という話ではないのだから。
総務省、フューチャースクール推進研究会を開催
教室での「1人1台タブレットPC」など、教育のICT活用を推進
お断りとまとめ
上記、特に前項では、さもベンダーが悪であるかのように位置づけたものの、そういったラベリングは意図していない点を断っておく。
僕個人はAppleやMSに囲い込まれる事を拒んでいるけれど、そうする事のデメリット、そうしない事のメリットは良く分かっている。
もし仮にベンダーが、ロビー活動を通じて、「学校ではiOS以外の携帯端末の使用は禁止」などという法律ないし条例を制定させるような事があれば、それは悪だと思うけれど。
新しいモノを目にして「うえっ、なんじゃこりゃ、使いづらそう」と思ったとしても、それに触ってみる、慣れてみるという挑戦は、これからの時代ますます必要になってくる。大人も子供も同様にだ。これを怠れば、直感が時代遅れになり、「この写真はなんで落ちないんだ?」と同じような失敗を犯す事になるだろう。
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