桐山くんとひなちゃんの(恋愛的な意味での)進展にキャーキャーするのが不謹慎に思えるほどに。本質的で素朴で、だからこそ誰にでも通じるテーマが、ここにある。
「自分の居場所」「それを勝ち取り/守る為の戦い」「不義への怒り」。6巻のテーマはこの3つだと思う。
以下、長文。ネタバレ有り。
ある社会人向けセミナーで聞いた所によると、人間の性格を分類する際、農耕型(安定志向)と狩猟型(開拓精神)という分け方があるそうだ。僕なんかは超・農耕型(安定志向の点数が凄い高くて、開拓精神が全然ない)と分類された。自覚通りである。
こういう人間は自分の居場所があればそこに満足して、新しい居場所を求めて旅立ったりはしない。何かあってその居場所が奪われでもしない限りは。
(ビジネスの世界では狩猟型の方が価値があるような感じがして、居心地が悪かったものだ。でも日本人の7割以上は農耕型だとか?)
この物語が始まった当初の桐山くんは、それに近い状態だった。学校にも、引き取られた家にも居場所がなくて、居場所を探して逃げて逃げて、やっとプロ棋士として自分の居場所を見つけて確保した。
で、そこで止まっちゃっていた。農耕的な安定志向になりかけていた。
ただそこは、島田8段や周りの人達によって「棋士の世界に居続けたいなら、そんな選択肢はない」と思い出させてもらえた。「みんなが火の玉みたいに負けず嫌い」。これは既刊のお話。
将棋を離れれば桐山くんは思いっ切り農耕型に見えるし、戦おうとするひなちゃんを思わず引き止めようとしてしまった安全重視のあかりお姉さんも、恐らくは農耕型なのだろう。ひなちゃんとじいちゃんは言わずもがな。
閑話休題。
将棋界では、シンプルに勝敗を争う。一方が勝てば一方は負けるのだし、勝ち星を掴む手段は相手を負かす以外に無い、自分の居場所を広げれば相手の居場所が狭まる、そういう世界。
幸田8段(第二の父)。松永7段(会津の魂)。安井6段(飲んだくれパパ)。桐山くんはそうして生きてきた。
じゃあ学校という、ひなちゃんがスクールカーストの存在を指摘した、あの空間は?ずっと複雑だ。狭いようでいて色んな位置がある。
クラスの中心・人気者的な立ち位置。その取り巻きのような位置。孤高を貫く存在。バカだけど愛されるキャラ。若干ウザがられている誰か。
でもここでは、誰かの居場所を奪ったからって自分の居場所が広がるわけでは無い。
ステレオタイプな例として、スターの取り巻き層が、クラスの隅で本を読んでる物静かな子をイジめて、その居場所を削り取ったとして。
それでもイジめた側は何かを得るわけでは無い。ただの暇つぶし、八つ当りでしかない。だから不毛だ。
狩猟型寄りの子供は、自分の立ち位置が限定・固定されてしまうように感じると居心地が悪くなって、やんわりとストレスが溜まったりする。うまく学校の外に新しい居場所を探しに行く機会を持てればいいけど、庇護は時としてそれを邪魔する方向に働くものだ。
そうしたストレスが農耕型寄りの子供に向かうと(向かい易い気もするが)、どうしたものか「いじめられっ子」という立ち位置に定住しちゃったりする。好きでそうした筈は無いけれど、そうなるとイジメの構図は確定的で、それなりに安定して持続する。
イジめる側が匙加減を間違えなければ、続いている問題が教師に認知される事がないまま卒業なんてケースもあるだろう。
生まれ持った性質がどっちであろうが、居場所がないのは辛い。しんどい。そしてそれが不義(安易な千日手への逃げ、理由のないイジメ)により奪われたものならば怒りが生じるのは当然の事だ。
ただ、それでも怒りに任せたら負けなのだ。負かせたら負け。結局は居場所を失う。
桐山くんが怒りに振り回されそうになる一方、ひなちゃんは怒りを表面上はコントロールできている辺り、前者が子供なのか後者が大人なのか。それとも女性は須く男より大人という事か。
ひなちゃんは事をうやむやにせず、はっきりと戦ってきっぱりと決着をつけるだろう。6巻は戦況の把握と駒の配置の巻だったと言ってもいい。
本作の展開は決して速くない…というか遅い。ただこれは必要な遅さだ。
実は、彼らのような年齢には農耕型だの狩猟型だのといった分類は決定的な意味を持たない。「どちらかと言えば」という性向はあるにせよ、まだどうとでも変わっていけるからだ。
年若い彼らの行く末は、チェスやオセロのように計算づくで先々まで読めはしない。予測が拡散して計算できない将棋の盤面のように、一足飛びには先に進めないのだ。
かつては投げ遣りに走った桐山くんを、今回は二階堂の熱い言葉がきわどく止めたように。一手一手、ゆっくり追っていかなくては。
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